出張で大阪に来た夜、宿に荷物を置いて道頓堀に繰り出した。 金曜日の夜の道頓堀は、人の波が途切れることがない。 ネオンに照らされた通りの端に、 一軒の小さなたこ焼き屋を見つけた。

屋台とは呼べないほど小さな店。 調理スペースは畳一畳ほどで、 60代くらいのおばちゃんが一人で焼いている。 メニューは3つだけ。看板もなく、 店名すら書いていない。

でも、行列ができていた。

たこ焼き屋台
大阪の路地裏。看板のない店ほど、美味い。

「3つだけ」の値付け哲学

メニューは以下の通りだった。

興味深いのは、この価格設定だ。 原価はおそらくほぼ同じ。 生地、タコ、ネギ。調味料のコスト差はわずかだろう。 にもかかわらず、塩は100円高く、だし醤油は150円高い。

列に並びながら観察していると、 ほとんどの客が「塩」か「だし醤油」を注文していた。 最も安い「ソース」を頼む人は少数派だ。

「一番安い」は選ばれない

これはプライシング理論で言うところの 「おとりの価格」(デコイ効果)に近い。 500円のソース味があることで、 600円の塩味が「ちょっと贅沢だけどお得」に見える。

おばちゃんがこの理論を知っているかどうかは分からない。 しかし、数十年にわたる商売の中で、 「3つの価格帯を用意すると、真ん中が最も売れる」 ということを身体で覚えているのだろう。

値付けとは、商品の値段を決めることではない。 「顧客がどう感じるか」をデザインすることだ。

大阪の夜の通り
道頓堀の喧騒。ここには、ビジネスの本質が転がっている。

「おまけ」が生む顧客生涯価値

たこ焼きを受け取ると、おばちゃんが 「これサービスな」と、焼き立てを2個、 小さな紙カップに入れて渡してくれた。

原価にして数十円。 しかしこの「おまけ」が持つ効果は絶大だ。

「おまけ」の3つの効果

まず、予想外の喜びが生まれる。 期待値を超える体験は、記憶に強く残る。 次に大阪に来たとき、この店を思い出す確率が上がる。

次に、口コミの種になる。 「あの店、おまけくれたんだよね」。 人に話したくなるエピソードが生まれる。 SNS時代において、この効果は計り知れない。

そして、罪悪感による再訪動機。 心理学で言う「返報性の原理」だ。 もらったら返したくなる。 次は友人を連れてこよう、 と無意識に思う。

SaaSにも通じる「もう2個」

これを抽象化すると、 SaaSビジネスにおけるフリーミアムモデルと同じ構造が見える。

無料で使える範囲を「おまけ」として提供し、 体験した人が有料プランに転換する。 おばちゃんのたこ焼き2個は、 フリートライアルの原型とも言える。

投資先のSaaS企業に対して、 「フリーミアムの設計を見直しましょう」 と提案するとき、私はいつもこの夜のことを思い出す。

焼きたてのたこ焼き
焼きたての「おまけ」の2個。これが顧客体験のすべてを変える。

看板がない理由

帰りがけに聞いてみた。「お店の名前は?」

おばちゃんは笑って言った。 「名前なんかいらんやろ。味で覚えてもらえたらそれでええねん」

ブランディングの教科書には、 名前やロゴの重要性が繰り返し書かれている。 しかしこのおばちゃんは、 「体験の質」だけでブランドを構築していた。

名前で検索されることはないだろう。 Googleマップにも載っていないかもしれない。 でも「道頓堀の端の、おばちゃんのたこ焼き屋」として、 確実に人の記憶に刻まれている。

ビジネススクールのケーススタディでは学べないことが、 大阪の路地裏には転がっている。

理論より先に、現場がある。 数字より先に、人がいる。 そういうことを、600円の塩たこ焼きに教えてもらった。