リスボンのアルファマ地区に泊まった最初の朝、 路地裏の急な石畳を降りた先に、間口2メートルほどの小さなカフェを見つけた。 店名はなく、入り口に「BICA」とだけ書いてある。
カウンターに立つ老人が、何も聞かずにエスプレッソを差し出した。 ポルトガルではエスプレッソのことをビカと呼ぶ。 1ユーロにも満たないその一杯を受け取って窓際に座ったとき、 ふと考えた。 「今日、何を決めなければいけないか」と。
1. 「決めない」という意思決定
経営者が日々直面する意思決定の数は膨大だ。 だが、リスボンの朝に気づいたのは、 「今日決める必要がないこと」を先に仕分けることの価値だった。
投資の世界でも同じことが言える。 「今は判断しない」というのは怠惰ではない。 情報が不足しているときに無理に決断することこそがリスクだ。 市場が不透明なとき、ポジションを取らないことは、 立派な戦略的判断になる。
「優れた意思決定者は、決断の数を最小化する人だ。 彼らは、"本当に今日決めなければならないこと"だけに集中する。」
2. 身体が知っている答え
ビカを飲み終えたころ、ある案件のことが頭に浮かんだ。 数日前から検討していた投資先の話だ。 スプレッドシートの数字は悪くない。 ロジックも通っている。
でも、なぜか胸の奥がざわつく。
ソマティック・マーカー仮説、というものがある。 神経科学者のアントニオ・ダマシオが提唱した理論で、 過去の経験が身体感覚として蓄積され、 意思決定の際に「直感」として働くというものだ。
経験を積んだ投資家が「嫌な予感がする」と言うとき、 それは非科学的な迷信ではない。 過去に見てきた何百もの案件のパターンが、 身体を通じて警告を発しているのだ。
3. 不可逆と可逆を見分ける
カフェを出て、28番のトラムに乗った。 黄色い車体が狭い路地をギリギリで抜けていく。 その揺れの中で、3つ目の原則が降りてきた。
Amazonのジェフ・ベゾスは、意思決定を 「一方通行のドア(不可逆)」と「二方通行のドア(可逆)」に分類する。 一方通行のドアを開けるときは慎重に。 二方通行のドアなら、とにかく早く開けてみる。
旅が教えてくれること
結局のところ、この3つの原則は、 オフィスにいても分かることかもしれない。 しかし「分かる」と「腑に落ちる」は違う。
リスボンの朝の光、石畳の冷たさ、ビカの苦味。 五感が開いた状態で思考すると、 普段は言語化できないものが形を取り始める。
だから私は時折、旅に出る。 逃避ではなく、思考の解像度を上げるために。
あの朝の3つの原則を、今も手帳の最初のページに書いている。
- 「今日決めなくていいこと」を先に仕分ける
- 身体の声を無視しない
- 不可逆な決断だけ、慎重になる
シンプルだけれど、これだけで意思決定の質は変わる。 少なくとも、私にとってはそうだった。